| ジャマイカ村とは何か・・・そんなあなたに贈る ジャマイカ村歴史年表 |
設立経緯から現在までを振り返って・・・
平成8年3月
永竿高宏(当時23歳)の「暇だからジャマイカにでも行く」という思いつきに、強引に石川義昭(当時25歳〜[第4回〜第10回実行委員長])も誘われ、2人で10日間のジャマイカ旅行に出掛ける。海外旅行経験もなく、英語も喋れない2人の旅は波乱を極め、強烈な思い出を「ジャマイカ」は二人に残す。
平成8年
大分県の主催する地域おこし塾「NEO21塾」が大分全県で塾生を募集。その中の宇佐両院塾(院内町、安心院町、宇佐市)の募集で、当時院内町役場で院内町の塾生募集を担当していた石川は、町内の応募者を集められないことに責任を感じ、自ら入塾。「ジャマイカに無理やり連れて行った」と石川に借りのあった永竿も入塾。そして宇佐両院塾の初会合にて、宇佐市で集められた川谷浩(公務員)外、計15人のメンバーで2年間の塾生としての任期はスタートした。 会合は月に一度程度で、行政があらかじめ用意した「豊かさを感じる地域にするには自分たちは何をすれば良いのか!?」等というテーマで話合いを重ねたが、元々行政に半ば無理やり集められたメンバーがこんなテーマに興味を持つはずもなく、会合の出席率は最悪だった。しだいに宇佐両院塾は県内の他塾に大きく遅れをとり、最年長のため塾頭となった川谷は責任感が強く、会合に出席させるためあの手この手を使ってみたが、「笛吹けど踊らない」メンバー達で大いに悩む最初の1年間だった。
平成9年はじめ
塾活動も残り1年となり、当時過疎地域が必ずやっていた嫁不足解消のための「ねるとんパーティ」の企画・運営を行政から委託される。何かやることは決まった(決められた)が、これまで何もしなかった割にはこのパーティの企画・運営だけでは物足りなさを感じたメンバーは「何かもう一つくらいイベントを!」ということで話合う。そんな時、永竿は強烈なジャマイカの思い出をイベントとして表現することを思いつき、提案。特に名案もなかった他のメンバーたちも「なんかおもしろそう」という安易な発想ですんなり受け入れ、特に議論することもなく「ジャマイカ村」なるイベントをやることが決まった。ただし、どんな内容のイベントになるかはこの時点では誰も想像できていない。 平成9年5月 全県下の「NEO21塾」が集まる研修会の場において、宇佐両院塾代表の川谷が「ジャマイカ村」の開催を発表。しかし、研修会の講師兼アドバイザーとして招かれていたどこぞのお偉いサンから「そんな自分の地域と何の関係もない国を取り上げて、訳のわからんイベントをやって何になる?君らがそんなイベントをやるのは10年・・・いや、100年早い!!」と全参加者の前で罵倒される。が、この出来事以降メンバーには「俺たちは100年先を行っている!」という愚かなプライドが芽生え、ジャマイカ村実現に向けて本格的に始動する。 平成9年6月 開催日まで二ヶ月を切ったものの、未だ何から手をつけてよいかわからない日々が続く。手がかりをつかむべく東京のジャマイカ大使館、政府観光局に石川・永竿・川谷ら計4名で乗り込む。はじめて本格的に「ジャマイカ」と接したことで、イベントプランを形作るきっかけとなった。
平成9年6〜7月
ジャマイカ村のプランニングが進む中、「逢えて・YOU」(ねるとん・パーティ)の第1回目「地ビール作り、陶芸編」を院内町で、第2回目「浜辺でバーベキュー編」を宇佐市で開催。
平成9年7〜8月
開催直前となり、PRのためにメディア周りを精力的に行うがどこへ行っても「?」という反応がほとんどであったが、逆に鋭く反応してくれるわずかながら理解者も現れた。そういった方々の支援の中、ラジオ番組の出演の機会等にも恵まれた。イベント資金としては行政の援助もあったが、チケット収入に頼る部分が大きく、実績のないイベントであるため、メンバーは前売り券の販売にかなり苦労した。しかしこの頃は、初めての経験を迎えるメンバー達は、各自の家庭や仕事もそこそこに「ジャマイカ村」に没頭する日々が続く。テンションは最高潮であった。
平成9年8月
NEO21宇佐両院塾の主催で「ジャマイカ村」を安心院町の家族旅行村「安心院」で開催。安心院町での開催は過去2回のねるとんパーティが院内町と宇佐市で開催されたことから、地域バランスを考えてのことだった。
以降二度とない晴天に恵まれ集客は2,000人。ジャマイカ料理の露店は政府観光局から送られてきたレシピをまず日本語に訳すところから始め、自分たち自身が一度も食したことのない料理を販売するといういい加減なものだった。またレゲエ・スカというジャンルのバンドがなかなか見つからず、DJ中心だったためステージを期待してきたお客さんからは不満の声も上がった。しかし、PRも満足には出来なかった中、県外からの客が多かったことに手応えを掴む。そして初回以降常連となる、「スカ・ロケッツ」というバンドと出逢う機会に恵まれたことは、その後のジャマイカ村の方向性を決定づけたといっても過言ではない。その他チョモランマ、ワニ、パンゲアが参加。
平成9年9月
ジャマイカ村の余韻もさめぬ中、「逢えて・YOU」(ねるとん・パーティ)第3回目「ドレスアップパーティ編」を豪華ホテルにて開催。「参加者に自信を持って出逢いのチャンスに挑ませる」というコンセプトの中、パーティの前に全参加者にドレスアップ・ヘアメイクを施し、男性参加者向けに「女の口説き方講座」、女性参加者向けに「スマイル講座」「メイクアップ講座」「立ち振る舞い講座」を実施するなどの手法を取り入れ、都合10組のカップルを誕生させた。この新しい「ねるとん」スタイルは外部からは「ジャマイカ村」よりも数段高い評価を得た。
平成9年12月
老朽化のため取り壊しとなる宇佐市の文化センターの終焉を飾るためディスコパーティを院内町青年団との共催で開催。この年は1年間で計5回のイベントを開催し、2年任期の塾活動を終了。最年少の永竿(当時24歳)最年長の川谷(当時32歳)という県下の他の塾と比べて著しく若いメンバーで構成された「宇佐両院塾」は県下に大きな旋風を巻き起こした。
平成10年4月 大分県が「NEO21塾」に引き続き設立した1年任期の「NEO21塾専門コース」の「宇佐両院塾」に大半のメンバーが参加。新たなメンバーも加わりジャマイカ村U開催に向けて活動を開始する。
平成10年8月
NEO21宇佐両院塾の主催で「ジャマイカ村U」を家族旅行村「安心院」で開催。 集客2,500人。相変わらずバンド探しに苦労するも、ジャマイカ料理はジャマイカ人コックを招き、また会場内にはその場で髪の毛を三つ編みできるコーナーやネイルアートコナー等を新設。レゲエバンド「THE BANDORIES」、ジャズファンクの「ジャカラandソウルマンブラザース」、カリブ海の打楽器「スチール・パン」の第1人者「マイケル・ロビンソン」が参加するなどイベント内容に若干の前進は見られ。たが、「レゲエバンドコンテスト」として集めた地元のバンド達はまったくレゲエを演奏しなかったり、途中で雨が降ってステージが中断する等アクシデントも多く、「二年目のジンクス」という言葉が重くのしかかった第2回目であった。
平成11年3月
NEO21宇佐両院塾専門コースを卒塾。「県が主催する塾のイベント」という後ろ盾がなくなり、資金的な援助は残ったもののそれ以外はほぼ完全に行政と切り離した実行委員会体制で今後のジャマイカ村を運営していくこととなる。
平成11年4〜7月
NHKの全国版ニュースでも取り上げられるなど各種メディアに載る回数が増えたことで、イベントに対する問い合わせ数は飛躍的に伸びた。また、PRツールとして安心院特産のすっぽんを原料とした「ジャマイカ村スッポンドリンク」を発売。販売は今一つだったが、奇抜な発想を注目を集めた。
平成11年8月
ジャマイカ村実行委員会・安心院町の主催で「ジャマイカ村V」を開催。 集客3,000人。一週間後に福岡・二見が浦で開催される「サンセットライブ」と協同してハワイからのレゲエシンガー「サーラ・インディオ」の招聘にも成功。レゲエバンド「ラスタ・ファミリー」が初参加、またスカ・ロケッツとともに以降このイベントの核的存在となるスカバンド「ザ・リトルエレファント」が初参加。グループでバーベキューするお客さんが増えるなど、イベントの雰囲気としてはステップアップした内容となった。
平成11年12月
院内町長の強い要請もあり、石川・永竿が在住する院内町での開催機運が高まり、「ジャマイカ村W」はオープンしたばかりの院内町平成の森公園で開催することで合意。資金面のみならず、運営面でのバックアップも約束され、実行委員会としては活動しやすい環境が整った。
平成12年2〜7月
石川がスタッフの念願であった「ジャマイカ村ホームページ」をついに作成。さらに各方面から情報が集まるようになり、お客さんやバンドと主催者のコミュニケーションの場として以後重要な役割を果たすこととなる。またスタッフ間の連絡、PR、バンド探しにもインターネットが大活躍。改めてその力を思い知らされることとなった。
平成12年8月
ジャマイカ村実行委員会・院内町の主催で「ジャマイカ村W」を開催。 集客3,000人。「アーツ」「リデンプションズ」「タイトジャンクション」「河内ロッカーズ」が初参加し、過去最多の延べ16ステージを企画するも、雨に見舞われれ初日は途中で中止。ほとんどのスタッフは初めてジャマイカ村で涙した。しかし実力派のバンドが揃ったステージは雨の中でもかつてない盛り上がりをみせたといえる。新しい会場も好評で、またインターネットを通じて多くのイベントに対する好意的な感想が寄せられスタッフに大きな自信となった。
だた、ジャマイカ村のお客さんが帰り道に交通事故に遭遇し、一人の方が亡くなるという事件が発生。経験したことのない悲しみと落胆を味わう。いろんな喜びと悲しみを一度に経験してしまった、非常に大きな意味を持つ第4回目であった。
平成13年5〜8月
他の地域おこしグループの研修会で永竿が講師として招待される。同じような研修会で「そんな自分の地域と何の関係もない国を取り上げて、訳のわからんイベントをやって何になる?君らがそんなイベントをやるのは10年・・・いや、100年早い!!」と講師に罵倒された日から4年の歳月が経った。その間仕事や家庭の事情で多くのメンバーがジャマイカ村実行委員会を去って行き、新戦力を補充しながらの活動となる。
平成13年8月
ジャマイカ村実行委員会・院内町の主催で「ジャマイカ村X」を開催。 集客3,000人。「スキャンパーズ」(福岡)が初参加。台風が心配される中での開催で、今一つ集客は伸び悩む。また初日の開始時間が二時間も遅れるなどまたしてもアクシデントがつきまとう。今回は初めてジャマイカ大使館からジャマイカ特命全権大使アール・カー氏が来場。在日ジャマイカ人バンド「マジェスティック」「マッカラフィン」が初参加し、在日ジャマイカ人も多数来場、「ジャマイカ」色の濃い第5回目となった。
平成14年3月〜8月
スタッフ不足など様々な問題を抱えながらも、何とか「ジャマイカ村Y」の開催を合意。例年より遅れたスタートとなる。 平成14年8月 ジャマイカ村実行委員会・院内町の主催で「ジャマイカ村Y」を開催。
初の盆前開催で集客3,000人。「スケイツ」「ギャズ」「ニパーズ」が初参加。また「ブルービート・プレイヤーズ」そしてDJとして「デタミネーションズ」(大阪)よりShigeruさん・Shinさん参加。今年も時折降る雨に悩まされながらの開催。前回までの反省を踏まえたゆったりめのステージスケジュールが功を奏したのか大きなトラブルもなく進行。また集客総数は微増ではあるが、駐車場が一時不足するなどお客さんの滞在時間が長くなってきている事が感じ取れた。
平成15年2月
このイベントの顔役とも言える川谷浩がついに実行委員会からの引退を表明。運営体制の見直しの必要性を感じながらジャマイカ村Zへのスタートを切る。
平成15年7月
ジャマイカ村実行委員会・院内町の主催で「ジャマイカ村Vol.7」を開催(今回より回数表記を改める)。7月開催が功を奏したのか、初めて天候の不安なく当日を迎え、集客は3,000人。「ダブ・ロッカーズ」「ザ・マイスティース」「ワッツ・ラブ?」「ナーキ」が初参加。制作に「ケストレル」(福岡)を加え、また院内町役場職員をスタッフの中心とした運営体制となる。チケット代金を700円→1500円と値上げし、内容をグレードアップさせた効果は非常に大きかったものの、会場内の水道水が枯渇するという前代未聞のトラブルも発生し、大きな手応えと一方でイベント規模拡大の大変さを痛切に感じた第7回目となった。
平成16年2月
平成17年3月の市町村合併を控え「院内町」としての最後の開催となる「ジャマイカ村VOL.8」へのスタートを切る。
平成16年7月
ジャマイカ村実行委員会・院内町の主催で「ジャマイカ村Vol.8」を開催。初のTVCMも試み、ついに集客は4,000人を突破。「ザ・スキャ・フォニックス」「カリナ」「ボノボ」「ブラック・ボトム・ブラス・バンド」「バグダッド・カフェ・ザ・トレンチタウン」が初参加。お客さんの増加と共にトラブルの発生数も増加し、あわてる場面もあったものの、途中降り出した雷雨もさほど進行には影響を及ぼすことなく、運営面でも大きな収穫を得た第8回目となった。
平成17年3月30日
実行委員会と共にジャマイカ村を主催してきた「院内町」が市町村合併により消滅。新しい「宇佐市」が誕生し、スタッフの多くが新たな職場に異動となる中、様々な不安を抱えながらもジャマイカ村Vol.9へのスタートを切る。
平成17年7月
ジャマイカ村実行委員会の主催で「ジャマイカ村Vol.9」を開催。開催日直前までは合併の余波による様々な問題が生じたが、当日は特に問題もなく平穏無事に進行した。今回はチケット料金を1,500円→2,000円に値上げもあったが、出演バンドの充実、増加(10組→12組)、第1回目以来の晴天に恵まれるなどの要因もあり、4、0000人の集客を維持。「フリスコ」「クリス・マーレー」「ユア・ソング・イズ・グッド」「ビック・ボンゴ」「ポメラニアンズ」が初参加。前回のお客さんの増加と共に発生したトラブルも事前準備を徹底したせいかほとんど起こらず、進行全体もスムーズで、記念の10回目を前に大きな弾みをつけた第9回目となった。
平成18年2月
記念すべきジャマイカ村Vol.10へ向けてのスタートを切る。10回を機に主要スタッフが引退を表明しており、もしかしたら最後のジャマイカ村かもしれないとの「集大成」の心構えで望む。
平成18年6月
地元フットサルチームFCジンガのユニホーム作成にあたり「ジャマイカ村」がスポンサーとなる。FCジンガは「ジャマイカ村」の文字を胸に刻みPRに一躍。
平成18年7月
ジャマイカ村実行委員会の主催で「ジャマイカ村Vol.10」を開催。記念の開催でありながらかつてない最悪の天気予報の中当日を迎える。幸い初日の土曜日は天候は持ち「ツイている」と思ったのもつかの間、翌日曜日は記録的な豪雨となった。各地で野外イベントが相次いで中止になる中、関係者全ての「記念すべき第10回目を何としても最後までやる」との献身的な動きは感動的ですらあり、想いは通じたのか奇跡的にも無事に全日程を終えることができた。集客数は激減したが、来ていただいたお客さんにはいつもと一味違う「雨の中のカリブ海」をいつも以上に楽しんでいただき、改めて10年間の歴史の積み重ねの重さを認識することとなった。「ライジング・トーンズ」「エスカルゴ・マイルス」「ウエーブ・アイランズ」「ミスティカル・バイブレーションズ」が初参加。
平成18年9月
石川・永竿を始め数名のスタッフが第10回を一つの区切りとして実行委員会から引退。第一回目を知るスタッフは誰もいなくなり、次回以降の開催については一旦白紙状態となったが、同じく市役所に勤務する弓場健悟を中心とした新体制を発足。永竿より10歳下の若い弓場と引き続き回りを固めるスタッフ達は新たなる歴史へのスタートを切る。
平成19年2月
「今度こそは本当になくなるのでは・・・」との心配や励ましを多くのファンからいただきながら、何とかジャマイカ村Vol.11の開催を表明。多くの難題が待ち受ける中、開催への具体的な準備が始まる。
平成19年7月
ジャマイカ村実行委員会の主催で「ジャマイカ村Vol.11」を開催。衆議院選挙の日程に振り回され、例年より1週間遅い開催となったため近隣各地のイベントと日程がぶつかり集客は大苦戦。幸い天候には恵まれたものの開催中も何かとトラブルも多く、資金的にも大きな痛手を被り反省点の多い第11回目の開催となった。しかし、スタッフ達にとっては事実上「1回目」とも言える開催で大きな苦労が待ち受ける中、新たなるスタートを切った現スタッフ達の勇気には多くの賛辞が送られた。「アジアン・ソニック・アンサンブル」「ブラウン・シュガー」「ナチュラル・レディオ・ステーション」「トゥエンティ・フォー・セブン」が初参加。
平成20年2月
前回の苦労にめげることなく、新たな決意を胸にジャマイカ村Vol.12の開催を表明。
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